論説

1.自然農法の原理
1.1 自然農法の論説について
この原理を説くに当って徹底的に分らせるためには、どうしても既成科学の頭脳では無理であるから、私が神示によって知り得た唯心科学を以て説くつもりである。従って最初は相当難解であるかも知れないが、熟読玩味するに従い、必ず理解される筈である。若しそうでないとしたら、それは科学迷信に囚われているからで、これに気付けばいいのである。そうして私の説く処絶対真理であるのは何よりも事実が示している。
(栄光245号 1954年1月27日)
本当を言えば、自然農法に於ては指導者の必要はないのである。何となれば私の説をよく噛み締めれば、それで充分解る筈だからである。
(栄光163号 1952年7月2日)
1.2 従来の農法について
(1953年の凶作にあたって)その直接原因である種々の災厄に対し、それに打克つだけの力が稲になかったからで、つまり稲の弱体である。ではこの原因は何によるかというと、これこそ肥料という毒素の為であると言ったら、唖然として開いた口が窄らぬであろう。何しろ今日迄の農業者は、肥料を以て農耕場不可欠のものと信じ切っていたからで(中略)ある。これに就いて重要な事は成程科学が他の物に対しては結構に違いないが、少なくとも農業に関する限り、無力処か大いに誤っている。例えば土の本質も肥料の性能も今以て不明である為、人為的方法を可とし、自然の力を無視している点にあるからである。
(栄光245号 1954年1月27日)
抑々この問題の根本は土に対する認識不足からである。というのは今日迄の農法は肝腎な土を軽視し、補助的である肥料を重視した処に原因がある。考えてもみるがいい、如何なる植物でも土を離れて何の意味がある。(中略)今日迄の農業者は土を蔑視し、肥料を以て作物の食料とさえ思った程であるから、驚くべき錯誤であった。その結果土壌は酸性化し、土本来の活力の衰えた事は、昨年の大凶作がよく物語っている
(栄光245号 1954年1月27日)
言わば、土その物は肥料の塊とも言うべき貴重品である。それを何時の時代どう間違えたものか、肥料という、土を殺し、土地代の栄養を阻止するような汚物を手数をかけ、農民の懐を絞り、反って減産に役立つものを使うようになったかという事で、全く驚くべき迷信にかかってしまったのである。
(栄光119号 1951年8月29日)
“明治初年あたりには反当一石くらいだった、それが化学肥料を使うようになってから俄然として成績が良くなった。だからそんな無肥料という事は絶対に駄目だ”という事を言ってます。しかし明治初年には一石というのは少し大袈裟な言い方で肥料を使うようになってからとそんなには違わないが、しかし一時は違ったのです。それはどういうわけかというと明治までが無肥料でやって来たのならそれは学者の言うとおりです。しかしそれまでに散々人糞をかけていたのです。だからそれが妨害していたわけです。それで化学肥料をやるようになってからは人糞の害から免れたので良くなったのです。
(御教え集26号 1953年9月16日)
空中から窒素を採る事を発見し、使用した処大いに増産されたので、それ以来世界的に普及されたのであるが、右は一時的効果であって、決して長く続くものではない。何れは窒素過剰に陥り、土が弱って減産する事になるが、其理がまだ判らないのである。つまり麻薬中毒と同様であると思えばいい。
(栄光141号 1952年1月30日)
1.3 土について
抑々土とは造物主が人畜を養う為に、作物を生産すべく造られたものである以上、土其ものの本質は肥料分があり余る程で、言わば肥料の塊りといってもいい位である。
(栄光141号 1952年1月30日)
抑々太初造物主が人間を造るや、人間を養うに足るだけの食物を生産すべく造られたものが土であるから、それに種子を播けば芽を出し、茎、葉、花、実というように漸次発育して、芽出度く稔りの秋を迎える事になるのである。してみればこの米を生産する土こそ素晴らしい技術者であり、大いに優遇すべきが本当ではなかろうか。勿論これが自然力であるから、この研究こそ科学の課題でなくてはならない筈である。
(栄光245号 1954年1月27日)
神は此様にして、人間の生命の糧である五穀野菜を過不足なく生産されるように造ったのであるから、此道理を考えてみればよく分る。神は人間を生まれませておき乍ら、其生命を繋ぐだけの食料を与えない筈はない。もし其国が有する人口だけの食糧が穫れないとしたら、それは神の造った処の、自然の法則にどこか叶わない処があるからである。
(栄光79号 1950年11月22日)
本来土と言うものは、霊と体との二要素から成立っているもので、体とは土其もので、霊とは目には見えないが、土の本体である。
(栄光141号 1952年1月30日)
土を尊び土を愛する事によって、土自体の性能は充分発揮される。それには何よりも土を汚さず、より清浄にする事であって、これによって土は喜びの感情が湧き活発となるのは言う迄もない。
(栄光245号 1954年1月27日)
作物を作れば作る程土は良くなる。人間で言へば働けば働く程健康を増すのと同様で休ませる程弱るのである。
(栄光79号 1950年11月22日)
土壌は作物の種類によって、其作物に適応すべき性能が自然に出来る。
(栄光79号 1950年11月22日)
肥毒のない清浄な土で稲なら稲を作ると、土の方で稲に適するような成分がわいて来るのです。それは実際神秘な話です。そこで年々土自体に特種な性能ができ、その性能がだんだん発達してゆくのです。ですから素晴らしく良い土になってゆくのです。という事は素晴らしく肥の効いた土になるのです。肥と言っても今までの肥とは違って、良い意味のもので、つまり神様の作った肥で、それが増えてゆくのです。
(御教え集27号 1953年10月16日)
1.4 自然農法の基本原理
自然農法の根本は、土そのものを生かす事である。土を生かすといふ事は、土壌に人為肥料の如き不純物を用いずどこ迄も清浄を保つのである。そうすれば土壌は邪魔物がないから、本来の性能を充分発揮し得る。
(栄光79号 1950年11月22日)
自然農法の原理は、実際と遊離したものではなく、実際と抱合っているのであるから、驚異的成果を得るのである。全く科学以上の科学といってもいいのである。次に厩肥の事もかいてあるが、厩肥と雖も無論土を汚し、弱らすものであるから、それだけ成績が悪いに決っている。としたら自然農法の原理は飽迄土を尊び、土を愛し、汚さないようにすることである。そうすれば土は満足し、喜んで活動するのは当然である。人間でいえば障害を受けないから溌剌たる健康者となるようなものである。
(栄光163号 1952年7月2日)
(参考)すべて如何なるものでも、その用途というものは神様が決めてあるのです。それを人間が人間の智慧で外のところに使うというその事が非常に不自然なのです。反自然です。だから一時は良くても結局駄目になります。そういう事の解釈がみんな違うのです。これは唯物科学の間違いです。そういう様なわけで、根本を知ればいいのです。だから土というものは、米を育てるために神様が作られたのだから、そのままでやればいいわけです。それをいろんな物を入れるという事は、それだけ土を穢すという事になります。という事は邪魔をする事になります。土が働こうとするのを働かせない様にして、とれない様にするのですから、これほど間違った事はありません。
(御教え集19号 1953年2月25日)
火水土の三要素が農作物を生育させる原動力としたら、日当たりをよくし、水を充分供給し、浄土に栽培するとすれば、今迄にない大きな成果を挙げ得る事は確かである。
(栄光79号 1950年11月22日)
今までよりも大分良くなったという事は、一体どういう訳かと言いますと、霊界が違って来たためです。つまり霊界に火素が増えたわけです。それで火素が増えると、やっぱり浄化作用が強くなりますから、肥料のような間違った事に対する影響が著しくなるわけです。それと反対に自然栽培の方は道理に合ってますから、そこで良くなるのですが、良くなると言う事は火素が増えるからですが、これはやっぱり一つの熱ですから、熱のために、肥料の妨げがなければ育ちがよいという理窟になります。
(御教え集30号 1954年1月6日)
人間の愛の熱というものは非常に影響するものです。(中略)そういう事が農作物にまで非常に影響するのです。(中略)作物がよく出来るという事は、無肥料のためともう一つは主人公の愛です。それで畦一つでチャンと区切っていて、隣の田とはまるで違うそうですが、それはそういうわけです。
(御教え集26号 1953年9月17日)
1.5 自然力について
この自然力とは何であるかというと、これこそ日、月、土、即ち火素、水素、土素の融合によって発生したX即ち自然力である。そうしてこの地球の中心は、人も知る如く火の塊りであって、これが地熱の発生源である。この地熱の精が地殻を透して成層圏までの空間を充填しており、この精にも霊と体の二面があって体の方は科学でいう窒素であり、霊の方は未発見である。それと共に、太陽から放射される精が火素で、これにも霊と体があり、体は光と熱であり、霊は未発見である。又月から放射される精は水素で、体は凡ゆる水であり、霊は未発見である。というようにこの三者の未発見である霊が抱合一体となって生れたものがXである。これによって一切万有は清々化育されるのであって、このXこそ無にして有であり、万物の生命力の根原でもある 従って農作物の生育と雖もこの力によるのであるから、この力こそ無限の肥料である。故にこれを認めて土を愛し、土を尊重してこそ、その性能は驚く程強化されるので、これが真の農法であって、これ以外に農法はあり得ないのである。故にこの方法を実行する事によって、問題は根本的に解決されるのである。
(栄光245号 1954年1月27日)
火、水、土の霊気が溶けて、そうしてそれが、一つの、見えざる力とも言うし、Xと書きましたが、名のつけようのないそれが凡ゆる物の基になるのですから、肥料と言うのはそれです。土というのは物質なのですが、その土の中に三位一体のコントロールされた霊気が満ちて、そしてその霊気は濃くなったり薄くなったりするのですが、穢さないで、人間が愛すと濃くなってくるのです。それが肥料なのです。ですから肥料というのは目に見えないものですから、科学が幾ら研究しても分らないのです。かえって科学は邪魔をするから駄目になるのです。
(御教え集30号 1954年1月16日)
土を穢さないようにという事は、大体肥料というものは、地霊-土からは始終霊気が発散してますが、地球の真中は火の固まりで、それが始終上昇しているのです。そこで地霊には非常に熱があるのです。熱といっても体的の熱ではなく霊的の熱です。やはり浄霊と同じやうなものですが、その熱が非常に強いのです。それで肥毒がないとその熱が始終通るから、それが肥料になるのです。それが地から上昇して空中にだんだん溜まって行くのですが、それが雨によって又土にしみ込むという事になり、それが窒素肥料です。だから土から肥料となる霊気が絶えず上昇しているという事を知っていればよいわけです。そこで土を穢したりすると、それを妨げるわけです。
(御教え集27号 1953年10月5日)
 
1.6 肥毒について

私は人為肥料が如何に恐るべきかを列記してみよう。 現在最も悩んでいる事は害虫の発生であらう。(中略)実は害虫なるものは肥料から発生するのであって、近来害虫の種類が殖えつつあるのは肥料の種類が殖えたからである。又殺虫剤を使用して害虫を駆除し得ても、薬剤が土に滲透して土壌を悪質化し、それが害虫発生の原因となる事を知らないとは実に愚かな話である。
肥料を吸収すると作物は非常に弱るのである。それは風水害に遇えば折れ易くなり、又花落ちがするから結実が少く背が伸びすぎ葉が大きくなる為実が葉蔭になって、米、麦、豆類は皮が厚く、実が痩せるのである。硫安や糞尿中のアンモニア、其他の化学肥料のその殆どが毒劇薬であるから、それを作物が吸収する以上、仮令微少であっても、常住胃を通じて人体内に入る以上、健康に害なしとは言はれない。(中略)糞尿肥料を二、三年中止すれば、回虫病は全滅するといふことを、最近の医学は報告している。此点に於いても無肥料栽培は偉大なる成果である
(地上天国1号 1948年12月1日)

肥料をやれば一時は相当の効果はあるが、長く続けるに於ては漸次逆作用が起る。即ち作物は土の養分を吸ふべき本来の性能が衰へ、いつしか肥料を養分としなければならないように変質して了うのである。之を人間の麻薬中毒に譬へれば一番よく判る。
(栄光79号 1950年11月22日)
“農林省でも今まで無肥料で幾度も作っている。しかしどうも成績が悪い、だから駄目だ”というわけです。これは前から聞く事ですが、つまり彼等のやるのは種に肥毒があって土に肥毒があるのです。そのためにうまく出来ないのです。これは最初の一年目には苗が黄色くなって針のように細くなって心配するというのがありますが、それなのです。やっぱり麻薬と同じで、麻薬が切れると、一時馬鹿みたいになってしまうのと同じで、根本を知らないから一年か二年の成績が悪いと、それで悪いものと決めてしまうのです。
(御教え集26号 1953年9月16日)
 元来害虫なるものは、人為肥料から湧くものであるから廃止すれば湧かないに決っている。処が現在は害虫を駆除しようとして、殺虫剤や消毒薬を旺んに用いているが、実はこれが土壌へ浸み込んで、害虫発生の原因となるのでその無智なる哀れむべきである。
(栄光141号 1952年1月30日)
 如何なるものでも、その用途というのは神様が決めてあるのです。それを人間が人間の智慧で外のところに使うというその事が非常に不自然なのです。反自然です。だから一時は良くても結局駄目になります。そういう事の解釈がみんな違うのです。これは唯物科学の間違いです。そういう様なわけで、根本を知ればいいのです。だから土というものは、米を育てるために神様が作られたのだから、そのままでやればいいわけです。それをいろんな物を入れるという事は、それだけ土を穢すという事になります。という事は邪魔をすることになります。土が働こうとするのを働かせない様にして、とれない様にするのですから、これほど間違った事はありません。
(御教え集19号 1953年2月25日)
1.7 品種・収量について
米の本質ですね。之は、未だ知らないだろうが、神様は最初米を作られたのは一つなんですよ。それが段々年代が経つに従って色々分れて来た。それは何ういう訳かというと、土地の-土がみな違うんです。それと気候ですね。それから水の多い少いとかですね。土の変化という事も、精しく言うと色々あるんですが、一番気のつかないことは地霊ですね。それからもう一つは、その土地に生える木の多い少いは大変関係がある。日本は木が多いですからね。雨が降って、木の汁が流れていって土に変化を起こさせる。それから山が沢山ある。山の蔭になったり、色々して土に変化を及ぼす。そんな様な色んな関係があって、そこで稲の品種が違って来るんです。品種が違って来て、それで良いんですがね。それを、北海道で出来たものを本土に持って行って植えるとか、九州に出来たものを関東に持って言って植えるというのが間違っている。種というのは、その土地に適当した様に出来ている。
(御教え集9号 1952年4月26日)
私が以前神様から知らされたのは、最初に出来た時は五、六粒しかなかった。それが人間が増えるに従って粒が増えて来たのですね。今日の粒と言うと、平均百二、三十粒ですがね。それでも今から千年位前は生り方がもっと少なかったんです。この半分位かも分らない。そんなわけで、人間が増えるに従って生り方が増えていくんですよ。ですから今の人口としては、もっと粒が多くならなければならない。
(御教え集6号 1952年1月16日)
1.8 災害についてについて
台風は天災ではなく人災であって、人間が作って人間が苦しむという呆れる程の無智の為である。(中略)抑々この世界とは見ゆる物質と見えぬ霊との二つから成立っており、丁度掌のようなもので、表(手の平)は体で裏が霊と思えばいい。つまり表裏結合一体となっている。そうして一切は霊が主で、体が従であるのが万有の法則である以上、現界に発生する凡ては最初霊界に発生し、それが現界に移写するのである。故に台風も最初霊界に発生するのは勿論であるから、この発生原因を作らないようにすればいいので、それ以外の方法は決してないのである。(中略)では霊的原因とは何かというと、即ち霊界を曇らす事である。その曇りが或程度を越えるや、茲に自然浄化作用が発生する。これが台風であるから、この曇を作らなければいいので、それには人間の想念と言葉に注意する。(中略)今一つは全然物質的原因である人肥金肥等の肥料、病虫害防止の薬剤等によって土を汚す為、自然はこの浄化の為大雨によって水で洗い流すのである。
(栄光230号 1953年10月14日)
2.自然農法の技術面
2.1 技術面について
私は自然農法の原理だけを、教えたので、技術面の方はみんなの方で工夫するということになったのです。
(御教え集27号 1953年10月6日)
本当を言えば、自然農法に於ては指導者の必要はないのである。何となれば私の説をよくかみしめれば、それで充分解る筈だからである。そうして不徹底な人の多くは技術面に関心を持ちたがるが、本農法に限って技術はたいして重視する必要はない。常識で考えただけで沢山である。何よりも此原理の根本は、肥毒を早く消滅さして、土自体の性能を発揮させればよいのである。
(栄光163号 1952年7月2日)
報告を読んでみると、従来の農耕迷信が、仲々抜け切らない事をよく物語っている。其根本は何といっても、自然を無視したがる事である というのは水田の水分が多いとか少ないとか、色々な事を心配するため、余計な事をして、反って成績を悪くするのである。(中略)処が我自然農法の原理は、実際と遊離したものではなく、実際と抱合っているのであるから驚異的成果を得るのである。
(栄光163号 1952年7月2日)
土地によって非常によく育つ所、つまり暖い所、それからごく寒冷地というところは、種を蒔く時期も早くするとか遅くするとか、それは適宜に土地の状態に応じてやればいいのです。よく、あそこでこういうやり方だから、それに習おうと言ったところで長く作った所は肥毒が非常に多くしみ込んでますから、そういう所は無肥にしても、肥毒をとるのに年限がかかるわけです。
(御教え集19号 1953年2月25日)
自然栽培のやり方というのは、一番手数がかからないで楽なのです。それがいいのです。どうも人間は面倒臭い事や、ややこしい事をしたがる観念がありますが、そのために成績が悪いのです。ですから一番手数がかからないで楽なやり方ほど良いのです。
(御教え集19号 1953年2月27日)
2.2 連作について
土を生かし、土の力を強盛にする為には連作する程、その野菜に対し土はその野菜を育むべき適応性が自然に醸成さるるからである。
(地上天国1号 1948年12月1日)
土の活力と言うのはね。肥毒の抜けた土で、何度も作っていくと、年々作物をよくする様な力が出ていく。それは五年以上でなければならないが、そうなれば今の倍位は何でもない。だから、連作でなければいけない。連作だと、そう言うのは段々良く育って来る。
(御垂示録5号 1951年12月8日)
一つ物を作ったら段々穫れて来ます。それに対する土がそれを要求する精分が出来て来るんですから、うんと出来ます。
(御教え集7号 1952年2月15日)
土というものは変化するのです。という事は、米なら米、豆なら豆と一つ作物を連作すると、それに対する土の性能が発達するのです。だからその作物を育てる性能がだんだん強くなって来るわけです。――これを分りやすく言うと、年々土の養分が増えてゆくわけです。――神様は土も稲もチャンとそういうふうに作られているのです。
(御教え集27号 1953年10月17日)
今まで連作を嫌ったのは、肥料の害を受けている土だから連作はいけないと言っているのです。これが一番分りいいのは、薬です。特に胃の薬ほど分りますが、一つ薬をのんでいると効かなくなります。そこで薬を変えると一時効くのです。というのはその成分に対して体の方が、つまり抵抗力と言うか、慣れてしまうので効かなくなるのです。
(御教え集26号 1953年9月25日)
毎年やっていると土が熟練してきて、その性能が増してくるのです。ところが折角熟練工になった土を、たまたま肥料をやったりしては、元の木阿弥にしてしまうわけです。
(御教え集26号 1953年9月16日)
2.3 堆肥について
世人は堆肥にも肥料分がある様に思うが、そんな事はない。
(栄光79号 1950年11月22日)
本当は堆肥もいけないのです。堆肥なしの土ばかりがよいのです。堆肥が土を邪魔するのです。前にも書いたとおり、土というものが肥料の固まりなのです。それで堆肥をやると、土の肥料がそれだけ減るのです。
(御教え集25号 1953年8月27日)
藁を使う事は廃めた方がいい。何よりも土以外の異物は決して入れないようにすべきである。
(栄光245号 1954年1月27日)
大体堆肥ですが、私は最初は「無肥料栽培」でやったのです。堆肥もいけないのです。ところが全然無肥料でやっては法規に違反するというのです。それは進駐軍の方なのです。それで投書か訴えをした者がいたのです。やっぱりアメリカ人も全然肥料無しだったら米はとれなくなる、そういう宗教は禁止するという事なので、これは何んとかしなければならないというので、名前を「自然栽培」としたのです。――そういうわけで堆肥はやってよいという事になったのです。それは金肥、人肥よりはずっと被害が少ないです。しかし今日になればもう本当の事をやらなければならないので、去年(1952年)あたりからは堆肥もいけないという事を言うようになったので、本当はいけないのです。
(御教え集27号 1953年10月26日)
2.3.1 堆肥を使う例外の場合 堆肥の効果は土を固めない為と、土を温める為と今一つは作物の根際に土乾きがする場合、堆肥を相当敷いておくと、湿り気が保つから、乾きを防ぎ得るという。以上三つが堆肥の効果である。
(栄光79号 1950年11月23日)
赤土系の土は固まるから、それではいけないので、固まらせないために最初の二、三年でよいから、堆肥をよく腐らして混ぜるというそれでよいのです。
(御教え集27号 1953年10月26日)
藁が肥料になるんでなくて、唯根を温める丈だと言う事が書いてありますね。だから、極く寒い所ですね。――東北地方のね。――そういう所は、温めるのに藁をやる必要がありますがね。その他の所はやる必要はないです。
(御教え集9号 1952年4月17日)
土が天日で乾きますが、日当りの良い所は土が乾きますから、土の湿気を保たせるために堆肥をやりますが、これは木の葉でも何でも、湿気を保たせる目的でやるのですから、腐らせなくてもよいのです。果樹などは特によいです。水分を保たせるために落葉を厚くやりますが、それはよいです。堆肥というのはただそれだけのものです。
(御教え集25号 1953年8月27日)
2.4 その他の注意点
自然農法に失敗は決してない。もし失敗があったとすれば、それは今までの肥毒が残っているためである。
(栄光97号 1951年3月28日)
土の良い悪いであるが、これも余り関心の要はない。何故なれば悪土でも無肥なれば年々良くなるからで、連作を可とするのもこの意味である。
(栄光198号 1953年3月4日)
自然栽培に於ては一般に使う種子なら何でも結構である。つまり肥毒さえ抜ければどんな種子でも、一級以上の良種となるからである。「要は肥毒の有無であって、」信者中から何年か経た無肥の種を貰うのが一番いいであろう。その場合種子も近いほどよく、県内くらいならいいが、相当離れた他県などでは成績が悪いから止した方がいい。
(栄光198号 1953年3月4日)
除草は問題ではない。良いと思う時にすればいい。無肥料になると草の生え方が違う。米の成長する力が強くなるから雑草の生える力が弱くなる。神様は人間の生命を保つものには、強い力を与えている。故に無肥料になると除草が楽になる。
(御垂示録1号 1951年8月5日)
畑の方が、自然栽培は水田よりも余計効果があるんですよ。というのは、水田の方は大雨が降ったりすると、荒れますから肥毒が流れるんですよ。処が畑の方は肥毒が流れないから害をするんですよ。そこで畑の方が水田よりも一層効果がある。
(御教え集9号 1952年4月26日)
3.自然農法の効果・普及
3.1 自然農法の効果について
 肥毒のない清浄な土で稲なら稲を作ると、土の方で稲に適するような成分がわいて来るのです。それは実際神秘な話です。そこで年々土自体に特種な性能ができ、その性能がだんだん発達してゆくのです。ですから素晴しく良い土になってゆくのです。という事は素晴しく肥が効いた土になるのです。肥と言っても今までの肥とは違って、良い意味のもので、つまり神様の作った肥で、それが増えてゆくのです。ですから沢山とれるに決まってます。そういった肥毒のない清浄な土が連作によってだんだん沃えた土になるのです。それですから、今反五俵として、これが反十俵になり二十俵になり三十俵になります。そうなると分蘖が非常に多くなります。それで最も多くなると稲に枝が出て来るのです。だから一本の稲に千粒ぐらい成るようになります。五百粒ぐらいは何でもありません。ですから十俵になり二十俵になるのは当り前です。その方法でゆくと日本は今に米が余って始末に困ってしまうようになります。それこそ今度は輸出の方に苦労しなければならなくなります。そうなると農村天国になります。それで救世教によって病気が無くなったら、農村に病貧争絶無の世界が出来てしまいます。
(御教え集27号 1953年10月16日)
 自然栽培に対する経済的利益をザット挙げて見るが
(一) 肥料代が要らなくなる
(二) 労力が半減する
(三) 収穫が大増量する
(四) 目方が増え、炊き減りがなく、美味である
(五) 虫害が殆んどなくなる
(六) 現在最も悩みの種とされている、蛔虫や其の他の寄生虫問題も完全に解決する
(栄光141号 1952年1月30日)
  此の自然栽培法は一般農作物に対しても同様であって、それらもザットかいてみるが、先ず如何なる野菜でも素晴らしい実績が挙がるのは勿論、例えば薩摩芋なども驚く程巨大なものが出来、一個の目方五、六百匁位はザラであるから、総収穫量も有肥よりも二倍以上は確実である。又豆類も粒が大きく、数量も増えるので、三倍位の収穫は容易である。大根なども色白く、キメ細かく粘っとりとして、ザクザクなどは更になく、頗る美味であり、菜類も色がよく虫喰がなく、軟かで之又頗る美味である。其他玉蜀黍でも、南瓜でも、西瓜等、野菜と名のつく野菜は何でも好く、一々は略すが到底想像だもつかないのである。
(栄光141号 1952年1月30日)
風水害に遭っても無肥の方は強靭で、倒伏も少なく、倒れても直に起上るが、有肥の方は倒れたままで、大きな被害を被るので、此理由として根を見ればよく判る。無肥の方は毛根が有肥のよりも、ズット多くて長いから、根張りが強い為である。
(栄光141号 1951年1月30日)
 自然栽培で出来たものの素晴らしい美味である。米麦でも野菜でも一度味を覚えたら、有肥栽培の物は到底食う気にはなれなくなる。
(栄光141号 1951年1月30日)
果実も同様人為肥料を廃めてから、年々収穫が増すと共に質も良好で、多収入となり、皆感謝している。
(栄光141号 1951年1月30日)
 花卉にしても花は大きく色鮮かで美しく、生花などに使う場合、長持がするとて喜ばれている。
(栄光141号 1951年1月30日)
 無肥料の桑の葉で養蚕すると、蚕は病いにかからず、糸質頗る強靭で、光沢良く、其上増産確実であるから、之が全国的に実行されるとすれば、蚕糸界に一大革命を起す事は勿論で国家経済上如何に大なる利益を齎すかは、蓋し測り知れないものがあろう。
(栄光79号 1950年11月22日)
米でも野菜でも、肥料がなければ――神様がそう言う様に作ってある――保存がきくように作ってある。
(御垂示録5号 1951年12月6日)
硫安の如き化学肥料は、稲が吸収する以上其劇毒が仮え微量であっても、人間は一日三度宛腹の中へ入れるのだから、不知不識の内に人体に害を及ぼすのは当然である。近代人の罹病率が多くなったのも、そうした原因もないとはいえないであろう。
(栄光141号 1951年1月30日)
菜食というものの影響――之が非常にある。だから、つまり自然農法も、そうした米にしろ野菜にしろ非常に美味しくなりますから、どうしても多く食べる様になる。そうするとその為に人間に、精神的効果が非常にあると思う。
(御教え集9号 1952年4月25日)
無肥料の米を食っていると、肥毒が人間に入らないから、曇りが少ないから毒血が少なくなるから、病気も起らなくなる。けれども薬を飲んでは何にもならないがね。そうすると、人間が非常に平和的になる。そうすると、戦争を好まなくなるから、戦争がなくなる。
(御垂示録4号 1951年11月5日)
3.2 自然農法の普及について
自然栽培が国家的の問題になるという事になって、始めて“ではやっぱりそうだ、じっとしては居られない。大いに救世教を、岡田茂吉という人間を研究しなければならない”という事になるわけです。
(御教え集30号 1954年1月26日)
農業の方が先に分るわけです。そうして医学の方はその次という順序になったわけです。
(御教え集30号 1954年1月15日)
教えるよりか、実際に良く出来れば“不思議だ、どういうわけだろう”という事になってから、その理窟を言えば直ぐ分ります。さもなければ、なかなか簡単には分りません。
(御教え集30号 1954年1月16日)
実際方面ですね――各農村で事実を見せると言う事で、ああ之だなと言う事になるから、段々そう言った一つの機運が起って来る訳ですね。
(御教え集7号 1952年2月5日)
その方が良ければ法律を出さなくても実行します。美味い物と不味い物があって、法律で美味い物を食えと言わなくても、実際に美味ければその方を食べます。
(御垂示録18号 1953年3月1日)
それからつまり指導者の人などで、まだ徹底してない人が大分あるようです。説明の仕方がまだ弱いのです。これは断乎として、土を清浄にしなければいかんという事を根本にして言わなければならないのです。
(御教え集19号 1953年2月26日)